よこじゆく

よこじゅくのブログです

若者の變化に關する考察

區役所のハローワーク擔當の方と 若者の變化について話したとき かなり飛躍した意見を述べてしまった反省がある

そもそも 若者 などと一括りにして議論するのは あまり好きではない

ただ 私の経歴を話す流れで 私の「若者」に對する見解について質問いただいたので その場で思ひついたことを つらつらと述べてしまったが 後で反省した次第である

とても簡單に云へば 若者(基本的に未成年と大まかにとらへる)の行動様式は この何十年かにわたり變化し 特に ここ十年の間顕著であると見え またそれが 基本的に否定的に捉へられる傾向があること

しかし私の結論は 最近の若者の變化が 肯定的な變化と捉へられる といふものであった

しかし かなりの人が否定的に捉へるであらう現象を 何故私が肯定的に捉へられるのか といふ 當然起こり得る疑問に對して 私は十分に説明できてゐなかった

そこで ここにおいて 私の感覺を整理 言語化してみたい

現在 若者中心に スマートフォンが普及し 情報があふれかえる時代となり 基礎的な學びが不十分である状態で 情報と刺激が半ば強制されて脳内に入り込むといふ事態が續いてゐる

基礎的な學びとは 物事を言語化し それを元に思考し 自分なりの結論を生む技術の習得だと考へられるが

基礎的な學びを經ず 情報だけに接すると その情報や その情報によって與へられた価値觀は 受動的なものが主體となるため 様々な価値観を 整合性無視のまま 鵜呑みにし また さういった価値観の受け入れに頼る生活から抜け出しにくい状況をつくり出すことになる

通常單一の民族國家は その國軆が機能してゐる限り 民族の經驗と価値が 傳統といふ形で受け継がれ 共通の民族意識 道徳意識が醸成されるものだが 基礎的な學びが疎かになり 多様な価値観だけを無批判に受け入れる状態は 民族の繋がりを断ち切ることに繋がり得る

實際YoutubeNetFlixなどを常時見て育つた子供たちは 様々な云ひまはしを樂しんだり 何らかのテーマについて意見を述べたりすることはできるが 生き甲斐を見つけたり 何かを追求しやうとしたり 感動を傳へやうとする行動が少なくなるだけでなく 親や先生など年長者の教へを軽視し 自分や同年代の世界だけに篭ることが多くなるため 傳統の継承や 民族の自覺といった事柄に 無關心を通り越して嫌惡感を抱くことが多いと思はれる

ただ この傾向は戰後から一貫して續いており 現在テクノロジーの進化によって それが 加速度的 さらには指数函數的に進んで顕著になってゐると見られる

私の生まれた昭和50年代は 國家や家族の基盤が揺らぎ 傳統が失はれていきつつも 親は子供を 殺伐とした社會で生き伸びさせやうと 厳しく接し 子供はそれに反發しながらも しぶしぶ從ってゐるといふ構圖がよくあったと思ふが いやいやながらも「勉強」を強いられたことによって 基礎的な思考力が身につき 物事を客観的・批判的に見る土壌がつくられたと同時に 地域社會に一定の連帯意識が殘ってゐたので 子供達が 道端で遊び それを大人が(初対面であっても)諫めたり また關はりを持ったり 近所の「お兄さん」や「お姉さん」が子供たちの面倒を見たり といった關はり合ひによる ある種の道徳觀念の一般化が まだ爲されてゐた感じがする

しかし現在は さういった家族・地域の關はり合ひ 有り方は一變しており 親や學校が強制力で 生徒になにがなんでも 何かを身につけさせる といふ事自體が難しくなる一方 情報の多様化で 様々な価値觀が黙認されつつ(大人たちは頭をかかへながらも)その流れに抗つて 傳統を継承させることは難しくなつてゐる

昭和の大人が子供に強制した「勉強」も 確かに「生き殘る」といふ個人主義的側面はありつつも 例へば國語の勉強は 傳統の継承と同義であり 民族の価値觀が「勉強」を通して継承される部分もあった

しかし現在は その「勉強」さへも強制できなくなっており 多くの大人が「このままでは日本は終はる」「どんどん惡い方向へ向かってゐる」と感じてゐるやうに思ふ

また この流れは 世界におけるグローバル化 すなはち 現在では公に扱はれる「ディープステート」を利する流れであり 言葉を變へれば 國際的に活動する金融・軍事・メディアなどがセットになった権力の望んだ流れであり それは 各國の傳統・文化を廃し 地球規模の單一価値による支配を促すものである

このやうに 元來の日本的価値觀 例へば祭りを大切にする価値觀や 神社に詣でたり 各地方の傳統を美しく感じたり 祖先を敬ひ 人を思ひやり 家族を大切にし 協調性を重んじる人々は 絶望的な状況を感じざるを得ないだらう

ただ 私としては 今後の世代が より民族の文化を継承していき より精神的にも 物質的にも豊かになるためには 一度 個々の繋がりが断たれるやうな 分離的方向性が必要だったのではないか(あへて過去形で書くのだが)と考へてゐる

なぜなら 學校の先生や 両親 大人の価値觀が「國家觀」を失ひつつあり グローバル主義による秘密裏のコントロールによって様々な「新しい価値」が定着しつつある社會において 人々の統合の意味するところは グローバル化への盲目な邁進であり その行きつく先は 單一の価値觀 支配者による 完全統制社會だからである

例へば 昭和の世代では 歴史の授業で生徒が教はることは 「日本は惡い戰爭をした」「戰前は軍國主義で間違ったことを教へてゐた」などであり いはゆる「自虐史観」を助長するものであったし

最近の傾向では 「持續可能な社會」「再生可能エネルギー」「環境保護」「多様性」といった グローバリストのプロパガンダが教育内容に多く含まれてゐる

グローバリストと一括りにするのは弊害もあるが カール・マルクスの思想を適用した共産主義者の一部が秘密裏に世界中の國家の中枢へ進入し ウオール街に代表される金の力と中華人民共和國の廣大な土地における活動利益を最大限行使して 各國の政治をコントロールしてきたことは 今や都市傳説ではなく 多くの知識人・學者・政治家が公に認めるものである

これを客観視して 自らの民族の記憶に立ち返るやうな機會を得るには かういった既存の組織・枠組みから 一旦離れなければならない

さういった意味でグローバリストが推進してゐるIT化・多様化といふのは おそらく思はぬ形で 自ら彼らのゴールを阻害する流れを生み出してゐるのだ

先程も觸れたやうに 「勉強」を通して基礎的な思考力・表現力をつけてゐない若者は 傳統・文化の継承も難しく いはば 根なし草で 中ぶらりんな状態になり易いやうに思はれる

「勉強」に對する強制力も弱まってゐるので 多くの大人はそれを心配するだらう

ただ 最近 Youtuberとして名声を得てゐる若者を知る機會が多くなり 必ずしも從來型の「勉強」のみが 基礎的な思考力・表現力をつけるのではない といふことが かなり明瞭になってきたと考へられる

例へば それ程教科書的な知識がなかったとしても 不登校で 學校を出てゐなかったとしても 明確に國家を大切に考へ 問題意識を持ちつつ 様々な人々の意見を聞き 情報を發信し 影響力を高めて この國の傳統や文化を大切にしつつ 豊かで住み良い環境を みんなで創っていかうといふ「インフルエンサー」が 登場してゐる

學校などの既存の教育では不十分とし ネットを積極的に利用しつつ 現場に赴き 廣く社會情勢を知り より良い未來を模索する若者が増えたのは 既存の統合性や年長者による統制が失はれたからこその結果なのではないだらうか

かういった流れは 學び方には様々あり そのどれもが この日本を存續させ より豊かで調和した社會を目指すことに繋がることを示してゐる

したがって私は 若年層のIT依存化 受動化などの問題はありつつも 全體として価値觀が分裂することにより 適切な統合の余地が生じ 今後の各人の取り組みによっては 強制的な支配によるのではなく 個々人の能力や興味を最大限に尊重した學びを通して 日本全體の一體感 先祖から傳はる価値への共感なども擴がっていくのではないかと思ひ 今後の若年層に對して かなり肯定的に見てゐると同時に 私もこの日本を繋いでいく一人として 次の世代が 「自分の好きな事を 最大限する」ことは「日本全體を發展させ維持させる」ことと何ら矛盾しないといふことを 人生を通して證明していけたらと思ふ

思ひ

最近 YouTubeのコメントなどでも見かける「氣」といふ文字は
米の重要性が より認知されてきたこともあり
使用する人も増えてきたやうに思ふ

「氣」の内にある漢字は「米」で これは 食べ物である米の意味であると同時に
エネルギーの源 發散の象徴であるとする説明が爲されたりしてゐる
對して「気」は 「〆(しめる)」といふ意味合ひをもち 象徴的に
エネルギーを制限してしまふ といふことだ

これを 語源に遡つた 科學的眞理の問題と考へると おそらく立場によつて様々な解釈が有り得るし
論爭が起きて 問題の本質が隠されてしまふ

私が重要だと思ふのは 歴史的に傳はつてきた文字に象徴されるであらう意味合ひを
民族の慣習や思想 生活のあり方と結びつけて 自分なりの意義を感じ
同じ言語を使ふ者との連帯感や 長い歴史に根差した安心感を共有することであって
それが 同じ土地に住み 同じ言語を話す者との協調性をより深くして
日々暮しやすく また 危機に際しては 連帯しやすい土壌をつくることに つながるといふことだ

とにかく分断ではなく 調和を

文字に何らかの意味合ひを見出すとき この點を重要視したく思ふ

現在學校で習ふのは 「思ふ」ではなく「思う」だが
「は」行と「あ」行では どのやうに意味合いが變はつてくるのか ふと思つたので ここに記しておく

「は」行は何かを軽くする もしくは滞らせず軽快に流すイメージがある

息をふきかけるとき 「ふ〜」と言つたり
手が冷たいとき 「は〜」と息を手にかけたり
何かに怯えて「ひ〜」と逃げたり
物事に感心して「へ〜」とか「ほ〜」とか言ったり

一音でも ちゃんと意味があるのだ

「おも」 といふのは 「表」(おもて) だったり 「重い」(おもい) だったり 「趣」(おもむき) だったりと
様々な場面で使はれるが 細かい意味合ひは 色々考へられるとして 少なくとも
「お」も「も」も 母音が「お」なので 重いイメージがある
發音したときも「あ」「い」「う」「え」のどの音よりも 「お」は腹の方に響いてくる

ここで「思う」と言った場合 「おも」の重いイメージは そのまま「う」の音につながるので その重さが確定した感じがする
しかし 「思ふ」と言った場合 聞こえる音としては「おもう」といふ音だとしても これを發する人は「h」の子音を少なからず意識する
そのことで この「思ひ」は「重い」ものではなく 「軽さ」「軽やかさ」を帯びたものになる

私の感覺では 「思い」とか「思う」は 少し詰まったやうな思ひに感じ
「思ひ」とか「思ふ」といふのは 開かれた 軽やかな思ひに感じるのだ

だから この「思ひ」や「思ふ」を長年使った後に 「思う」と書くと なんだか「詰まった」感じがする

私は 何ら學術的な議論をする氣はない

我が國が戰爭に負け 占領された後の教育改革を經て 改良された日本語を我々は學校で習ふが
それ以前に使はれてゐた假名遣ひや 漢字を積極的に使つてみると 自分なりに その意味合ひや
心地良さ 現在主流となってゐるものが いかにその微妙な表現力や背後にある精神性を貶めるものであるか といふことが體感される

その意味で 戰後 假名遣ひや漢字を混亂させた勢力に感謝したいと思ふ

このやうにされてはじめて 我々は本來 我が國で使はれ 發展し 自然變化してきた國語の體系の美しさ 柔軟性 表現の豊かさに氣付けるからだ

あらためて

前回更新してから ずいぶん時間が経ちました

さらっと 前の記事を読みましたが やはり いつの間にか 日記みたいになってました

ここは よこ塾について 知らない人が よこ塾を知ってもらうための場である

そんなことを いつも忘れてしまいます

今まで書いた内容は 今でも思っていることです

だから 特に訂正するつもりはありません

私は 普段 旧かな遣い 旧漢字を使います

ですが 学校では 通常 みなさんが使う かな遣いを習い

大学までの 教育機関の中で それを利用してきました

ですが その後 このかな遣いや 漢字の多くは

自然に変化して そうなったものではなく

外部の力で 強制的に 変えさせられた と知りました

そして かな遣いが 今のように 変更された 目的も 学びました

そこで 少なくとも 私は 変更される前の かな遣いを 積極的に使い

変更される以前の かな遣いが 今とくらべて どうなのか

体感する道を選び 20年以上が経ったわけです

その間 学校教育界は かな遣いについて ほとんど変化することなく 今に至っています

けれども 世の中の動きには 私としては 注目すべきものがあります

例えば 多くの 影響ある YouTuber が

「氣」という いわゆる「旧字」を 意識的に 使ったりするのを よく見るようになりました

こういったことは 小さい動きのようですが

確実に 「旧字」や「旧かな遣い」に関する認知が 進んできている あかしではないか と思っています

私たちの国の言語は とても柔軟で 流動的で 受容的であり

「様々なものを 受け入れる」

のに適しています

これは 言語が 外部によって 強制的に変えられたとしても

その本質が維持される 希有な性質だと思います

ですが たかが70年前には ほぼすべての日本人が使っていた かな遣いや 漢字は

その柔軟性や 美しさや 物事に対する感性などが

より繊細に表現できる そして 認知できる 言語体系だったことを

私は 身を持って 認識しています

ちなみに この記事を書きはじめたときは このような話の展開にするなどとは 全く思っていなかったのですが

このブログを通して

私が いわゆる 「旧かな遣い」「旧漢字」などと言われているものについての意見を

お伝えする というのも よいかも知れないと 今考えています

その際 学校で学ぶかな遣いなどに 慣れておられる 読者の方は

私の書き方に 違和感をもつ もしくは 読みにくい と思われますが

それ以上に そういったかな遣いの持つ 魅力は

私自身が それを使って お伝えしなければ

伝わらないのではないか

そのように考えます

「現代かな遣い」と言われているかな遣いも 適宜 使うかも知れませんが

基本的には 今後のブログには

「歴史的かな遣い」に近いと思われるものを使おうと 思っています

現在 私は 「使おう」と書くのに とても「氣持ち惡く」感じてしまう自分を見ています

おそらく 私の普段使う かな遣いは みなさんが見たとき 同じように感じてしまうのでしょう

ですが その違和感を 調和に変えるべく

私なりに これから できることを していきたいと 思っています

學びセット

本當に おもしろいと思ふのは
様々な 「學び」 が 「ひとつ」の 「學び」に繋がってゐるな〜 っと感じるときだ

かういふものを基本にして
世界の「パラダイム」が転換してゐる時代に生まれたことを とても幸運に思ふ

たとへば 「パラレルワールド」「並行世界」
といふ言葉は 「フィクション」として扱はれてゐた

飛行機のない時代の人が
「人は空を飛んで 世界の裏側へ行ける」と聞いたとき 「フィクション」と考へるやうなものだ

まさに ここに 「世代の違ひ」みたいなものが生まれてくるんだと思ふ

パラレルワールド」と本氣で言っている人に對して
「は? 何それ?」
といふのが 古い世代
「私は こっちの世界線に來たのかな〜」 といふのが 新しい世代

世界中の「パラダイム」が變はってしまふと
當然 學びの 「基本」が大きく變はることになる

江戸時代の子どもたちが習ふことと 現在の小學生が習ふことが違ふのも
時代の「パラダイム」の違ひによる

そして 依然として 古い「パラダイム」を持ち續ける 現在の「學校」といふものは
現代にあって 根本的な變革を余儀なくされる

しかし たとへば 時代の要請に合はせたかのごとく 推進されてゐる「プログラミング教育」「IT教育」なるものは
私にとっては 沈没しさうな船に 一生懸命 「超スーパー合金」みたいな新材料をつぎあてしてゐるやうなもので
たくさんの費用をつぎこみ 表面を取り繕ふやうな行為に見える

大規模に構築された機械の 基幹部分を變更するのが難しいやうに
「學校」といふ とてつもない規模の「組織」の「根幹」を變更するのは
まあ ムリゲー なのだ

ニュートンの三つの法則のうち ふたつは いまだに普遍的に成り立ってゐるやうに見え
そのひとつは 「質量が大きくなるほど 運動の状態が變はりにくい」といふ 「慣性の法則」だが
もっと廣義の「慣性」を考へるなら
「大規模な組織ほど 變へるのが難しい」といふことになるだらう

「學校」が時代のパラダイムシフトに直面して 結果起こるだらうことは
教育機関」として 全く新しいものが 世界中に廣がる中で 自然に衰退・消滅していく といふものだ

このやうな状況で 「今 まさに學びたいこと」を學べる環境といふのを「古い世代」が探すのは
難しいかもしれない
むしろ 子供たちの方が 「今何を學ぶべきか」をよく知ってゐる

そのやうに私は考へてゐる

よこ塾の目指すもの

よこ塾は 「與己塾」の略です
与へる 己の 塾

「与へる」とは 何でせうか
何かを 為す といふこと
自分に對して 人に對して 物事に對して 天に對して
私たちは 何かを 為すことのできる 存在です
それを 最大限發揮したい

「己の」 とは何でせうか
自分自身が 主體である といふこと
私達は 誰かの人生を生きるわけではなく
何かの 義務を生きるのではなく
自分自身の 人生を歩むのです

人生に 「しなければならない」 ことは
ひとつもありません
學問は 「しなければならない」ことを學ぶのでは ありません

私達 ひとり ひとりが
「決めたこと」
それを 實践するために 學ぶのです

私達は 何を決め
そして 何を為すのか

それは ひとりでも できるでせう
でも お互に 理解し合ひ 自分の 歩む道を 見出すこともできます
それは とても樂しい 冒險です
そして それを實践する場が 「塾」です

「塾」は 辞書通りの意味としては 「勉學をする寄宿舎」といったことですが
この地球 我々の周囲は 既に 勉學のために用意された 「寄宿舎」とも言へます

そこで 自分の能力を 最大限に發揮し 世界を樂しむ
すばらしいことだと 私は 思います

私は たとへ 私一人でも よこ塾の 塾生です
そして 仲間ができたら なおさら 樂しいでせう

これが 「よこ塾」です

よこ塾の 三大柱

  1. 廣く學び 既存の概念に囚はれない
    ----よく學び そして それに とらはれず 自由に發想する----
  2. 真理を探求する
    ----なにが 本物 なのか 探し續ける----
  3. 自分の「好き」を極め 實践する
    ----好きなことを とことん やる----

私の理想とする 教育者

私が 理想とする 教育者 もしくは 指導者 について 書きます

それは 自分自身を 輝かせ

本当に 楽しく 今を生きている人です

私のように 「指導」を依頼されている立場であるならば

私自身が 生き活きと 楽しく 充実した日々を送ることが

私が「この子を導いてください」という依頼に対して

最も効果的に 貢献できるものと 私は信じています

たとえば

例えば あなたの 身近で
もしくは テレビで
聞いたことは ありませんか?
見たことは ありませんか?

よく分からない 怪しげな宗教
カルト と噂されているものも・・・

熱心な信者たちが 何か 怪しげなことに 情熱を傾けていて・・・
その中には 社会的な 犯罪を犯した団体も・・・

想像できましたか?

想像できたなら 少し考えてみてください

あなたが 仮に 生まれた時から
今あなたが想像している 怪しげな団体の中で 暮らしているとしたら
本当に あなたは その団体を 怪しいと 思えるでしょうか?

さらに 次のように 想像してみてください

今 あなたの暮らしている 社会が
あなたの想像したような 「怪しげな」 宗教では決してない
あなたは 言ひ切れますか?